故郷の空港に咲いていたバラがぼくを迎えてくれた

時は待ってくれない。そのチャンスを逃がしてはいけない。

文鮮明先生の自叙伝の中に御自身の母との思い出が紹介されていた。

「日本が始めた大東亜戦争の戦況は日増しに切迫していきました。切羽詰った日本は、不足する軍人の穴を埋めるために、健康な二十歳以上の学生を休学させて、学徒兵として出征させました。そのため、私も六カ月早く卒業することになりました。 一九四三年九月三十日に卒業して、故郷の家には「崑崙丸に乗って帰国する」と電報を打っておきました。ところが、帰国船に乗ろうとした日、足が地に付いて離れないという不思議な現象が起きました。出航する時間はどんどん迫ってくるのに、どうしても足を離すことができず、結局、箆喬丸に乗り損ねてしまいました。「崑崙丸に乗るなという天のみ意のようだ」と思った私は、しばらく日本に留まることにして、友人たちと富士山に登りました。数日後、東京に戻ってきてみると、世の中は上を下への大騒ぎになっていました。私が乗ろうとした崑崙丸が撃沈されて、韓国に帰る乗船者のうち五百人以上が死んだという話でした。毘嵜丸は、当時の日本が誇る大型高速船でしたが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまったのです。息子が乗る船が沈没したという知らせを聞いた母は、確かな情報を得るため、そのまま履物も履かずに定州邑の中心街まで二十里 (約八キロメートル) の道を走っていきました。足の裏に太い棘が刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように私の名前ばかり呼んだそうです。その後、汽車に乗って釜山に下ってきました。釜山の海洋警察署に到着してみると、乗船者名簿に息子の名前はなく、東京の下宿からはすでに荷物をまとめて出発したと連絡を受けていたので、呆気にとられるばかりでした。」(文鮮明自叙伝87ページ)

 

自分のいのちよりも息子を気が狂うように愛された文鮮明先生の金慶継お母様の思い出だ。

「息子が乗る船が沈没したという知らせを聞いた母は、確かな情報を得るため、そのまま履物も履かずに定州邑の中心街まで二十里 (約八キロメートル) の道を走っていきました。足の裏に太い棘が刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように私の名前ばかり呼んだそうです。」

 

ぼくは、親として子への、いのちをかけて愛する時が来ることを。愛する瞬間を金慶継女史より学んだ。文鮮明先生は、その母親の愛の思い出をもって霊界に旅立たれたと思う。

子供に愛の贈り物を与えるチャンスが来た時、我を忘れて狂ったように永遠の愛を子供の心に届けましょう。

 

故郷の空港に咲いていたバラが、ぼくを迎えてくれた。 (2016.11.12)